日本の古時計/高岡の時計

#08 高岡の時計1
形式 四ツ丸ダルマ
年代 明治後期
製造 有澤時計製造所
文字盤 10インチ
サイズ 高さ:55cm
材質
その他 時打ち、

 有澤時計製造所は、明治30年以前から製造され本来この時計は金四ツ丸であった様である。
 有澤時計としては初期の製造であると思うアンソニアタイプの型である。

 有澤時計製造所は、明治30年以前から製造され本来この時計は金四ツ丸であった様である。
 有澤時計としては初期の製造であると思うアンソニアタイプの型である。

 文字盤は残念ながら貼り替えられている。
 指針は張四ツと同様にハーケン方の針である。

 ラベルの真ん中に有澤のトレードマークが入り、中心から円形に
 越中国、高岡市、有澤製造所とある。
 機械はあきらかに名古屋製と思われる物が入っていて、ビス穴も移動していないからオリジナルであると思われる。
 箱は他の四ツ丸と造りが少し違っていて、キャシャな感じがするが合理的に木材を利用して製作されているようだ。

#08 高岡の時計2
形式 張四ツ丸ダルマ時計
年代 明治30年
製造 有澤時計製造所
文字盤 8インチ
サイズ 高さ:54cm
材質
その他 時打ち、明治30年の1号

 有澤時計としては、めずらしくオリジナルの状態であり、背板には製造年月日を示すラベルが貼られている。
 文字盤ラベル共当時のままで資料価値の高い時計である。

 文字盤は日章旗とイカリの旗のマークがきれいに残っており、ビス穴も基の位置で文字盤が変っていないことを示している。
 鳥のマークは鷹であろうか正面を向いている図になっている。
 ラベルには有澤製造と丸竹ショップと記入されている。

#08 高岡の時計3
形式 八角尾長
年代 明治後期
製造 有澤時計製造所
文字盤 8インチ
サイズ 高さ:55cm
材質
その他 時打ち、

 金縁刷毛目模様の非常に状態の良い八角尾長時計であるが、文字盤以外はオリジナルの状態に近いと思われる。
 指針は123番の時計共、ハーケン型の針が付いている。

 文字盤は貼り替えられている。

 ラベルには#2の時計と同じ日章旗とイカリの旗のトレードマークが入っている。

 [高岡の時計]

 明治後期、日本各地で西洋時計が盛んに製造されたが、その大半が太平洋沿いに集中している。

 江戸時代、大都市沿が経済発展地となり明治期もその財力や消費地がそのまま時計製造地となったことは周知の事実である。

 高岡時計(有澤時計)は日本海沿いの富山県高岡で明治後期に製造され同時期の時計製造地としては異例地のひとつである。

 現在でこそ生産地と消費地とが遠く離れた地であっても、交通の便さえよければ生産地となることが多いが、明治期はやはり交通の便および消費地が近いところに集中していたのが通例であり富山県高岡が故時計製造が可能であったかの、今までこの高岡時計は発見台数も少なく資料もあまりなく幻の時計の一つとされてきた。

 近年あちこちで発見され話題とはなるが、実態を明らかにされたことは少ないようだ。

 ここで明らかになった高岡時計製造合資会社を検証すると次の通りになる。

 明治3年(1870)の富山県勧業第十五年報富山県内務部第四課資料によると、明治30年(1897)10月高岡時計製造合資会社、高岡市旅屋町門前、資本金3,000円、工員数30名、原動力3馬力1台、組合人員4名と記述、明治31年(1898)、明治32年(1899)と資本金、動力は変化なく、工員数は31年、32年と共に43名に増加している。

 製造台数については31年に324台製造されていると言われているが正確には30年、31年、32年と明確な記述はない。

 その後、富山県勧業年報から高岡時計製造合資会社の記述が見当たらない。

 有澤→高岡時計製造合資会社としては3年間の製造記録しかなく、やはり3年間で製造中止したようである。

 有澤時計(高岡時計)をここでもう少し検証してみよう。

 明治32年廃業と推測されるが、有澤時計が先に製造されたとする説と有澤時計が高岡時計の後とする説の2説があった事は事実である。

 既存台数が少ないためと資料不足であるため定説として成り立たなかったことも事実であるようだ。

 各方面に有澤、高岡の両時計について調査して得られた結果は次の通りであった。

 明治31年8月31日北陸政論記事によると「すでに高岡市坂下町に於いて時計製造業を営み居りし有澤庄五郎氏は、今度射水郡下関(相ト一亭)裏地に於いて時計製造合資会社を経て設立せんと計画にて、すでに該地を借受の契約等を済ませたるよし近々新築工事に着手するはずとなると云う。」記事

 次に明治30年9月3日北陸新聞の記事に「高岡市坂下町の丸竹合資会社にては今度業務拡張の為、同市桜町馬場近傍に時計製造所を建設せんとして地所を買い求めすでに工事に着手してこのほど棟上式をおこないしが多分本月中に出来る見込みといふ。」と記事がある。

 この二つの記事から推理できることが多く浮上するのである。

 つまり、明治30年8月31日の記事にて有澤庄五郎がすでに時計製造を公式に時計製造業として認められていることと高岡時計合資会社は明治30年10月以後に時計を製造したこととなる事実。

 今までこのことが確認されていなく、卵が先か鶏が先かの論評ばかりでその事実確認が新聞記事により出来た事である。

 一、有澤庄五郎と竹村清平が同じ城下町に在住であったこと。

 二、有澤庄五郎が高岡時計製造合資会社設立以前に有澤時計を製造していたこと。

 三、同時期に新聞記事より高岡時計製造に両者が関与していること。

 四、時計背板のラベルには製造者と販売者、有澤、丸竹が記入されていること。

 有澤庄五郎が高岡で時計製造が出来たことが以前から謎であったが、その解明の一つが有澤時計の機械にあった。

 有澤時計に名古屋の機械が仕組まれている時計が発見されている事実。

 機械には m、JAPANの刻印がなされていてビス穴は移動した形跡が無いことからオリジナルであることは明白で、この事実から名古屋から機械を仕入れ組立製造したと解明できる。

 「m.Japan」の刻印のみ有る機械は名古屋時計に多く使用されていることから、この機械は明らかに名古屋製である。

 名古屋の機械を仕入れて組立して時計製造を行っていたことは違いなかろう。

 同時期に創業した岐阜時計も同様に名古屋の機械を仕入れている事、そして名古屋の後藤萬蔵が機械を岐阜時計に仲立ちし供給している事。

 さらに高岡時計合資会社の竹村清平と後藤萬蔵は、高岡銅器を仕入販売する商売上の取引があり、時計製造の仲立ちとして名古屋の時計機械の供給に関与していても何ら不思議でもなく、丸竹ショップの竹村清平との高岡銅器を通して名古屋の時計機械導入に関与していることを岐阜時計創始者の子孫の証言からも立証されるかたちとなった。

 明治30年、岐阜時計、高岡時計とも同時期に名古屋の機械を利用して時計製造に着手したのも偶然ではなく後藤萬蔵が仲立ちしたことを裏付ける証拠でもあると思う。

 ただ何故3年足らずで時計製造を打ち切ったかは依然不明であるが、一説に高岡の大火が原因ではないかと云う説もある。

 北陸高岡で明治期最先端の時計産業が起されたことも又事実であり驚きでもある。

 有澤庄五郎が何時のころより時計製造に着手したかは未だに不明であり、今後の調査に期待したい。

富山県勧業第15回年報 (明治30年)
富山県内務省第4課

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